「笑う月」
今日はどうしても、君に聞いて貰わなくちゃならないことがあるんです。
昨晩、といってももう明け方近く、午前四時頃のことでした。
私は所用で外出していたのですが、その帰途、信じられないほど幻想的な景色を目にしたのですよ。
何だったと思いますか?
他でもない、それは下弦の三日月でした。
けれども、酷くくすんで、汚れたように濁った、陰惨な橙の月なのです。
書き割の空に吊るされた張り子の月−−、
そんな錯覚を起こす程、それは夜明け前の仄暗い空に、不自然な色と形で浮かんでいました。
形といいますのは、ほら。
三日月のカリカチュアは、その殆どが「ニタリ」と歪に笑った横顔をしていますでしょう?
欠け際のクレーターの影が、ちょうど、窪んだ眼と高く反った鼻、
裂けた口、それから尖った顎になって、
あの見覚えのある横顔を、そっくり形造っていたのです。
どうしてこれまで気付かなかったのでしょう。
戯画でしかないと思っていたものが、現実の月の姿でもあったのだと、
私は初めて知ったのでした。
月の光は、人を狂わせるといいます。
狂躁的な人を、ルナティックとか、ルナシィとか形容しますでしょう。
昨夜のあの月は、幻想そのものでした。
赤い月の幻想に捕われた私は、月と一緒に、
自分までジオラマの中の人形になったような気がしたからでしょうか。
暫く眺めているうち、急に悲しくなって、眼の前がぼやけました。
けれども、それがどうしてそんなにも悲しいのだか、
自分でもさっぱり判らないものですから、
今度は不意に可笑しくなって、思わず笑ってしまいました。
そんな時、思うのです。
どんなに深い悲哀に暮れる時も、暗い不安に駆られる時も、
こうして私の精神は頑強に保たれて、決して壊れることはないのだと。
結晶の様にどこまでも整然とした、この理性が狂うことはないのだと。
けれども、狂人はそもそも狂っているのだから、
まさか自分を狂人とは思わない。己の正気を微塵も疑わぬ者の正気ほど疑わしいものはないでしょう。
嗚呼、けれども。
こんなことを考える私ほど正常な精神を持つ人間が、ねえ、君。他にいるでしょうか?
苦痛の堪え難い夜、私は自分の正気を呪わしくさえ思うのです。
こうして聞いているのを知ってか知らずか、S主人は、度々ぼくを相手に独りごちる。
暗色の上下服にひょろ長い躯を包み、小作りの銀縁の眼鏡を掛けている。
かすかに艶のある白い皮膚は、動きに合わせて、
時折深い皺が寄る。
けれど場面によって不思議に変化する表情のせいか、
実際の年齢は、さっぱり見当がつかない。
日中は薄日の差す店内で、疎らな客の相手や、骨董品の手入れ、
帳簿の記入など、店主としての務めに余念がない。
カラン、カラン。
扉の鈴を鳴らして、ようやく今日一人目の客がやって来た。
主人は姿勢を正し、慇懃な態度で出迎える。
その顔に、月光のような淡い笑みが浮かんでいる。
主人はぼくの両脇を抱えると、レジスターの台から持ち上げた。
そうして陳列棚の隅の、骨董の洋燈の隣へ置いた。
赤いリボンを巻かれた、ぼくは黒兎のヌイグルミ。
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